日本文化と教育

日本で文化と言えば、和食やアニメ、輪島塗のような”日本っぽい目に見えるモノ”を指すことが多いですね。

でもそうだとしたらカルチャーショックはどう説明しますか?

文化的衝撃。

アニメを見て受けたショックではありません。

和食を食べた時の感動でもありません。

カルチャーショックとは違う考えと行動を持つ人たちと一緒にいると、その態度に気が狂いそうになる心理的衝撃を指します。

この場合、文化とは「特定の地域に住んでいる人たちによって作られた思考/行動パターンに関するルール」と定義されます。

そしてそれが本来の文化の定義です。

日本人が言う文化とは、「伝統」と訳されないといけません。

「この村には醤油を使う文化がない」とか「日本にはクリケットをする文化がない」などとよく簡単に言われますが、それが伝統とか慣習です。

文化の本質的な特徴は思考と行動のルールなんです。

考え方と行動に関するルールを司るのが文化なのですから、海外の人がちゃんと話せて、自分が話せないのは「アメリカ人だからあれだけ話せるんであって日本人だったら話せなくても…」なんて考えは大間違い。

日本人だってやればできるのにやっていないのです。

日本人が人前で話せない深ーい理由

そしてやってこなかった理由があります。

だって、出る杭は打たれるから。

または、寄らば大樹の陰だから。

もしくは、長い物には巻かれろだから。

そして、朱に交われば赤くなるようにこの文化では求められるからです。

極めつきは、故きを温ねて新しきを知ることが理想と考えられており、新しい考えは出すのではなく、簡単に想像力を放棄するからです。

全て文化の仕業です。

先ほどの諺には全部日本文化の中で住む日本人の思考を操っている考え方が反映されています。

・目立たないほうがいいのであれば、人前で話さなくてもいい。

・みんなと同化するのがいい。

・独立ではなく依存がいい。

・大きな組織に所属して安定するのが美徳。

・新しい発想があっても言葉にしないほうがいい。

こんな傾向がある文化だから人前で話す訓練などしたことがない人が多い。

いえ、学校教育でやっていないからその機会がありません。

少しだけ客観的に外から文化を眺めたらその枠から簡単に出ることができるのに、井の中の蛙だから大海を知りません。

スピーチ練習の実態

子どもが通っている日本の公立小学校でどんなスピーチの練習をやっているのかを聞いてみました。

朝の会に1分スピーチをやっているそうです。

そしていつも「昨日はこんな夢を見ました」と説明をして終わりだそうです。

中学校では弁論大会だそうです。

何か書かせて、教師がいいと判断した作文をクラスの代表にしてみんなの前で読ませるのが弁論大会だそうです。

これではダメだ。

教員が書き方を教えるのでなく、偶然よくできた、いや素質のある生徒の作文に主観的に高い評価をし、それを読み上げさせる。

どう話せばいいかを教員が教えいてないのが最大の問題です。

これではいつまで経っても世界に通用する人材は育ちません。

そして大人のあなたもその貴重な機会を得ることなく成長してしまいました。

あなたが若いころ、もし社会全体が「人前で論理的に、かつ優れた表現で話せて一人前」だという考えを基に一人ひとりが考え、表現する力を養わせていたら、今では世界が変わっていたはずです。

現在、学習指導要領では思考・判断・表現を重視するよう謳われていますが、現場は対応できていません。

50年前と何も変わっていません。

人前で話す伝統がこの国にはないのです。

以前、「何でもかんでもアメリカがいいとは思わない」と言う小学校の校長に出会いました。

でも、その人は洋服を着て洋食を食べていました。

いつも紋付き袴を着ているのであれば説得力はあります。

加えて、「これからは国際化だから下の者が上司に自由に意見するのが教員に求められる」と言った後に「まぁ僕は許さないけど」と言っていました。自分ができないことは都合よく異文化のせいにする安易な考え方です。

都合のいい自文化中心主義です。こんな教師がのさばっているのではこの国の教育はしばらくまだ変化できません。

少なくとも人前で話すという点では日本は世界で最も後進国です。

発展途上でもない。

異文化に接触し、違う考え方を取り入れると、それは態度にも表れます。表面的で目に見える異質を取り入れるのは簡単です。

でも、それは上っ面です。

深い理解が本当の変化を可能にします。

学べます。誰にでも。